チャールズリバーをわたって  第3話

 

「チャールズリバーのほとりで」は、

過去に同名の著書があることが

わかりましたので「チャールズリバー

をわたって」に変更させていただき

ました。

 

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「あー、ちょっと一息いれるか・・・」

 

なかなか思うように実験が進ま

ない。 いや、サンプル作成自体

はなんとかできている。 ここに

来たときはバラバラ状態で実験

室の片隅に放置してあった装置

を経験と勘を頼りに数ヶ月かけて

ようやく組み上げた。 今のところ

ノントラブルで稼動してくれてい

るので、薄膜のサンプルは計画

通りに出来上がる。

問題はそこから先である。

薄膜の性質を評価するため、成

分比の分析や性能測定、また

電子顕微鏡のお世話にもなら

なくてはならない。 会社であれ

ば、分析や電子顕微鏡観察は

専門チームに依頼し、肝となる

データのための測定に集中でき

ていたが、ここではそうするすると

事が運ばないのである。 信頼

できる分析結果を当たり前のよう

に迅速に届けてくれていた会社の

人たちの顔が浮かび、自然に感謝

の気持ちで一杯になった。

次の実験内容や理論構築、はた

また提出期限のある月報の内容

などを考えることで頭が飽和しそ

うなところに、微妙かつ重苦しい

壁による心的ストレスがじわじわ

と平常心を蝕む。

 

自分の机がある細長い部屋の

一番奥はわりに居心地がよく、

半地階に位置しているものの

窓からの日差しも十分届いてい

る。 隣には中国から来ている

ファン(黄)さんの机があるが、

昼間は実験室にこもっているの

で日中はほぼ個室のような静寂

を手に入れることができる。

 

同じことを深く考え続けたせいか、

思考力が落ち、脳みそが息苦しく

感じたので外の空気が吸いたく

なったのだ。

廊下へ出て左へ進むと突き当

たりの階段まで窓のない地下

通路が続く。 天井には空調や

実験設備のための配管が何本

も走り、両側に続く各研究室の

扉からは装置の機械的な金属

音や付属のポンプが立ち上がる

音が聞こえる。

 

どこでもいい、体に力を入れた

くなり階段を二段飛ばしに駆け

上がる。 一階の広めの廊下は

人の気配もなく、白い壁と石材

の床からはしーんと冷たい匂い

がするようだ。 キリアンコート

沿いの窓からは、フライング

ディスクを投げ合って芝生で

戯れる学生たちの姿が見える。

なんともこの風景が妙にしっくり

くるではないか。

廊下の突き当たり直前にある

重みのある扉を押し開いて外

へ出た途端、ふわっとさわやか

な空気と共に彼らの楽しそうな

声が一気に耳に飛び込んでき

た。

自転車を木陰に止めて読書を

する学生の横を通り過ぎ、芝生

の中の小道を歩いて行くと、

幾何学的オブジェとも思える

鏡面仕上げの大きな石ででき

た背のない腰掛が横たわって

いる。 座ってみると座面から

適度な温かさが伝わってきて

硬いわりに気持ちがよい。

姿勢を安定させてゆっくりと前

を向き、校舎沿いにそびえる大

きな広葉樹を見つめた。

初夏の光線で、そよ風に揺られ

る葉がかすかにざわつきながら

下から上まで全部がきらきらと

絶え間なく輝いている。

そよぐ葉のすがすがしいざわめ

きと背後から時折聞こえる歓声、

それぞれがこちらに手を振って

いるかのようなにぎやかな反射

光のきらめき、そしてすーっとし

た芝生と夏の匂いが一度に体

を包みこんでくる。

行き詰まりがちでがさつきつつ

ある心をほぐしてくれる束の間

の貴重な癒しだ。 そんな空間

でさえ脳は思考を続けようと誘

惑してくる。

いや、あえて実験のことは今こ

の瞬間考えるまい。 五感に

無理に集中するのではない。

目の前の木が一体自分に何を

言いたいのか、ただぼーっと

感じてみる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

硬くなった思考の塊が、徐々に

柔らかくなって脳全体に解け

広がるように薄まってゆく。

こんなときのほうが、塊のまま

無理やり考え続けるより岡目に

なれるものだ。

 

「よしっ、もう一度やってみるか・・・」

 

同じように輝いている周りの木々

をたどって首を少しひねらせると、

あのドームはいつもと全く変わりなく

”でん”と建物に被さっている。

ドームの中が、ちょっとゴージャ

スな吹き抜けの図書館になってい

ることを知っている人は案外少ない。

 

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