自分がアメリカに住んでいた時、
両親が一度だけ遊びに来てくれた
ことがありました。
鉄道好きな父親に最初に見て欲しかった
のはやはりボストンの地下鉄でした。
現地では地下鉄のことを「サブウェイ」と
言うことはほとんどなく、愛称である
「T(ティー)」で呼ばれています。
当時、自分が住んでいたアパートは
グリーンラインと呼ばれる路線の中の
C-Line(シーライン)が最寄で、
クリーム色と緑の2両編成の路面電車的
車両が運行されていました。
地下鉄と言っても特にグリーンラインは
ダウンタウン以外の路線ではほぼ
地上を走っています。
その雰囲気は、自分が高校時代に
通学に使っていた京阪電鉄の京津線に
よく似ていました。 大学への通勤に
使っていたのですが最初に乗ってから
そうですね、一週間くらいしてからでしょうか、
車両内のあるものを見てとっても驚きました。
なんとなく天井下の壁に張ってある
金属製の銘板を見たときです。
そこには漢字で「近畿車両」と古いフォントで
書かれていたのでした。
当時はその理由を調べることはありません
でしたが、現在ならネットでその歴史が
すぐにわかるのでしょうね。
父のために自分は前もって、ボストンから
ニューヨークへのアムトラックのチケットを
予約しておきました。 ワシントンまでの
高速鉄道「アセラ」が開業する以前のことです。
当時自分はさほどアメリカ鉄道に
興味をもっていなかったため、
乗車した列車名や車両形式、牽引機など、
現在も全く知らないままです(^^;
ニューヨークへ向かう途中、一度だけ
牽引機の切り替えである駅に十数分でしょうか、
停車しました。 父と二人でディーゼルの
つなぎ替えを外へ出て先頭まで歩いて行って
しげしげと見ていたことを覚えています。
そう、その駅がAlbany(オルバニー)だったわけです。
もちろん父はオルバニー駅の名前だけはよく
知っていたわけですが、あのオルバニーに
自分が居ることが信じられない様子でした。
というより、何度も疑って自分に聞いてきましたから(^^
そして車速がゆっくりの割にはあっという間に
ニューヨークに到着。 そう、グランド・セントラル・ターミナル
です。
今思えば、かつての蒸気機関車が
保存展示してあるところにでも連れて行って
やればよかったなと後悔しています。
自分も当時は仕事上長期の休暇は取れなかった
わけなのでやはり「たられば」になりますが、
シアトルやサンフランシスコまで列車の旅
を共にしたかったです。 中学生のころ
家族旅行で「安芸」という20系寝台列車で
山口県へ行ったことを思い出しました。
帰りは山陰線で特急「まつかぜ」キハ82系でした。
寝台列車も大好きな父なのです…。
砥石屋さん様、コメントをいただきまして本当にありがとうございます。
優しく気を遣われた素敵なお父様のお顔がなんとなく目に浮かぶようなお話ですね。
私は当時滋賀県に住んでいたため、国鉄山科駅から目の前の京津線山科駅で乗り換え
御陵(みささぎ)、日ノ岡、九条山、蹴上(けあげ)まで毎朝寿司詰め登校でした。
そうです、蹴上はエンジ/黄土色260形準急が停車しなかったため、もっぱら80形
を活用しておりました。 土曜日などは京都側終点の三条まで乗って河原町近辺を
ぶらついたり、たまに滋賀県側の石山寺や浜大津まで足を延ばしたりしておりました。
お父様のEF65(1000番台)、私も実は父に買ってもらいました。関水金属時代の
初代EF65をもっていたので、正面の貫通扉や運転窓上部の”ひさし”などにいたく
感動したことを今でも思い出します。 あっ、今思い出しましたが、その1000番台
が発売される前、もう一両旧型EF65を購入しどこかのメーカーの貫通扉のメタルパーツ
で1000番台に自分で改造して喜んでいたような…(^-^;
今のお父様は場所も時間も自由自在の世界においでだと思いますので、きっと米国の
実物のサンタフェ列車やUP列車をご覧になっておられることでしょうね。
小生も関西出身なのですが、店主様は京津線をご利用されていたのですね。今は亡き80形や260形は大好きで、20年位前に260形を1両だけ1/80でプラ板によりスクラッチしました。
近所の福知山線を朝夕に通過する「まつかぜ」も憧れで、ある年の夏休み、「まつかぜ1号」で和田山まで行って「はまかぜ」で姫路まで南下し、新幹線で新大阪まで戻る計画を父が計画したものの、金銭的に厳しかったのか「鉄道模型でええか?」とKATOのEF65(1000)になりました。
その父も数年前に亡くなり、抽宅の父の遺影は1畳弱の米国型Nレイアウトを見下ろしております。果たして、UPやSantaFeの走るレイアウトを見てどう思うのやら…